仮説と検証①「倭」縄文から弥生へ

 

 
中国紀元前470年頃 中国東アジア歴史地図より
http://www.geocities.jp/mapqin/


 

 
東シナ海周辺地図(グーグルマップ)  呉からの移民の想定ルート 

 


仮説 検証と解説
中国の春秋戦国時代、紀元前5世紀頃から、呉→越→楚と長江(揚子江)下流域の支配が移り変わっていく。
長江下流域の民は航海術に長けており、支配が替わる度に、東シナ海を渡り、縄文時代の日本に流れ着き入植した。
参考サイト:稲の起源は長江中・下流域だった
日本に伝わったジャポニカ米は、中国の長江中・下流域で生まれたようです。
参考サイト:稲作
出土植物遺体等の温帯ジャポニカ米(水稲)の遺伝子解析で、中国と日本で多く見つかっている種類の遺伝子が朝鮮半島では見つかっていないとのことです。

中国には「南船北馬」という言葉があるように、長江下流域の人々は船で旅をしたようです。
後漢書東夷伝の倭の記述にも「会稽東冶県人有入海行遭風流移至澶洲者」と記されており、史記にある蓬莱・方丈・瀛(澶)洲の三神山が日本を指しているとすると、会稽から日本に流れ着いた者がいたということになります。
以上の内容は、中国江南地方からの移民が、東シナ海を渡ってきたことを物語っているように思われます。
その主な行先は、海流の流れなどを考えると、縄文時代の九州や中国地方あたりではなかったかと思われます。
一部は朝鮮半島南部に渡った可能性もあります。

紀元前5世紀頃、呉の移民は縄文時代の九州や中国地方を中心に移り住み、縄文人とも交わり、稲作や高床式倉庫を教え、定住集落を形成して行く。 呉と言っても春秋戦国時代の呉と三国時代の呉がありますが、三国時代には魏志倭人伝にあるとおり、倭は帯方郡経由で魏と交流していたわけで、渡来元は春秋戦国時代の呉であったかと思われます。
縄文時代と弥生時代の両方の遺物が出土する遺跡も多く、縄文人と弥生人は交わっていった可能性が高いと思われます。

紀元前4世紀頃、越の移民は中国・近畿・東海地方へも移り住み、稲作に加え銅鐸などの文化も広めて行く。
参考サイト:銅鐸
越の貴族の墓から銅鐸と同じような磁器製の鐸が見つかっているので、越からの移民が銅鐸文化圏に広めたことが窺われます。

このようにして広がっていった弥生文化は、底流では縄文文化を引き継ぎつつも、東西(太陽)を基軸とした江南(長江下流域)文化を中心としたものであり、稲作、高床式倉庫、鳥居、漢字(呉音)などを象徴する文化である。

参考サイト:鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自
当時の長江下流域の民族:倭族は、鳥居と似た形状のものを門として建てる風習があったようです。
稲作がもたらした定住化により、蓄えた食糧で貧富の差が生まれ、やがて小国家が形成されていく。
そして、この間も、中国江南地方との交流は継続されていく。
後漢書東夷伝の倭の記述に、東鯷人(倭人より前の日本人と思われる)の記述に、「東鯷人分為二十余国・・・人民時至会稽市」とあり、二十余国の国があり、日本から中国の会稽(長江下流の都)に出かけて行き市を開いていたことが窺われます。

同じ紀元前4世紀頃、一方では、660年続いた周の諸侯国の一つである斉で、君主であった呂氏の系統が、最後には田氏に乗っ取られることになる。
生き残った呂氏と大夫らは、国家再建を願って、斉を脱出し、淮水地方に潜伏し、越に敗れた呉王と共に、機会をうかがって朝鮮半島西岸に辿り着く。
そして、西岸に留まり入植し朝鮮を興す。
斉の大夫である高氏は、淮水地方を中心に、黄海から東シナ海を股に掛ける高御産巣日神という海神として難民の渡海を支援し、その行動範囲を広げていく。
時が流れて、秦の統一により滅亡した楚王や韓王も淮水地方に逃れ、渡海して朝鮮に亡命する。
そして、楚王と呉王の子孫は夫余を興す。
一方、韓王と呂氏の子孫も馬韓を興す。
夫余からは海神の支援を受けて高句麗が興り、高句麗からは南に下って伯済国が興り、馬韓の一勇を成す。
伯済国は後に馬韓を統一して百済として君臨する。
このようにして、高句麗と百済は後に興る新羅と共に朝鮮半島の三国時代を迎えることになる。
参考サイト:斉 (春秋)
参考サイト:呉 (春秋)
斉では、有力大夫の田氏によって、有力大夫の高氏や国氏などが抗争を通じて徐々に脱落して行き、遂には斉建国から660年後の紀元前386年に呂氏の君主の座が乗っ取られ滅ぼされたとあります。
高氏と呂氏は、それから遡ること紀元前490年の政変で、田氏に追われますが、魯に亡命した可能性があります。
紀元前473年に呉王の夫差が越王の勾践により滅ぼされますが、顔を蔽って自殺したので身代わりの可能性があります。
参考サイト:馬韓
参考記事:倭と朝鮮半島とのつながりは?①檀君神話
参考記事:倭と朝鮮半島とのつながりは?②箕子朝鮮
参考記事:倭と朝鮮半島とのつながりは?③準王
参考記事:倭と朝鮮半島とのつながりは?④高句麗建国
参考記事:倭と朝鮮半島とのつながりは?⑤百済建国
参考記事:倭と朝鮮半島とのつながりは?⑥新羅(斯盧国)建国
参考記事:倭と朝鮮半島とのつながりは?⑦伽耶建国
朝鮮の三国遺事に檀君神話、史記に箕子を朝鮮に封じた話、魏志韓伝に斉の呂氏の話とよく似た箕子朝鮮の準王の渡海の話があります。
しかし、実際より古く自律的な国家成立とするための虚飾や、中国の朝鮮半島支配を昔からの既成事実とするなどで、春秋時代の周諸侯国の没落移民による朝鮮建国の事実を歪められた可能性が考えられます。
実際には斉や呉や楚や韓の没落王らの淮水地方への脱出と朝鮮半島への渡海により始まる朝鮮とそこから分かれた夫余と馬韓の歴史があり、そして夫余から興った高句麗、馬韓の伯済国から興った百済、馬韓の月支国から独立した新羅の三国時代につながって行った痕跡が見えてきます。

一方、朝鮮半島を後にして、済州島を経由し、九州の博多湾に辿り着く人々もいた。
そして、天之御中主神の系統は、福岡県春日市付近(伯玄社遺跡、須玖岡本遺跡)に入植する。
春日市付近の他に、高御産巣日神や神産巣日神の系統は、福岡市室見川付近(吉武高木遺跡)にも入植した。
神産巣日神(神武天皇)は、倭国を建国すべく、佐賀平野(吉野ヶ里遺跡)へ進出することになる。
参考サイト:済州島
参考記事:倭と朝鮮半島とのつながりは?③準王
途中経由した済州(チェジュ)島も「斉州」であり、同じ斉の流れを汲む地域と思われます。
済州島には、「三姓神話」という、朝鮮半島の「檀君神話」とは違った日本との関係を思わせる神話が残っています。
高と梁(良)と夫という3人の神が現れて、東国から使いと共に来た3人の姫たちと結ばれて、高が王になり済州島の歴史が始まるようです。
この三神が 斉の大夫の「高」、斉の王の「梁」≒「りょ」→「呂」、呉の王の「夫差」→「夫」で、東国とは日本とすると、済州島の神話が中国と朝鮮と日本との縁結びに関わっていたことを物語っているように思われます。
参考サイト:伯玄町の由来、はっけんどん
伯玄社遺跡のある福岡県春日市伯玄町には、年代は不明ですが農業や医療などの技術に長けた技術者がいたようで、技術を有する渡来人の歴史がありそうです。
また、伯済国と同様に、「伯」は貴族階級を表し、「玄」という言葉に纏わる人物が居たことが考えられます。
この「玄」は九州の北方という意味を表す「玄」で、玄界灘の「玄」にも繋がり、斉から脱出した呂氏から5代目という意味の玄孫の「玄」をも意味するとすれば、紀元前300年頃からの遺跡であり年代的にも辻褄が合います。
そして、伯玄社遺跡から発掘された弥生時代前期(紀元前300年頃)の甕棺墓が、日本の甕棺墓の先駆けになるようです。
同様に須玖岡本遺跡、吉武高木遺跡、吉野ヶ里遺跡からも、それより年代の新しい甕棺墓が発掘されています。

斉と日本との結び付きは、記紀にも表れています。
斉の建国紀元前1046年から乗っ取られる紀元前386年までの660年が、日本書紀制作時に、皇紀元年(神武天皇元年)である西暦紀元前660年と符合するように仕組まれた可能性があります。
また、伊邪那岐神と伊邪那美神の国生みの最初に淤能碁呂島「おのごろじま」(玄界灘に浮かぶ小呂島や能古島に比定される)が登場しますが、淤能碁呂島→男(おのこ)呂島→男の呂氏の島と考えることができます。
斉と日本との結びつきは、伊勢神宮にも見つけることができます。
伊勢神宮のある志摩半島は、中国の斉の国があった山東半島とほぼ相似形的地形で、同様に東が海に面しています。
伊勢神宮を斎宮と言い、籠る皇女を斎王と呼びますが、斎王→斉王であり、斉の王である呂氏を意味しているのではないでしょうか。
そして、 斎王による祭祀は奈良時代の天武天皇の頃から660年間続けられました。

紀元前3世紀後半になると、秦が楚や斉を含めた中国統一を成し遂げる。
同じ斉出身で、予てより斉の建国を夢見ていた徐福は、秦の始皇帝に不老長寿の薬が東方にあると上奏し、紀元前219年に童男童女数千人と技術者,五穀や数々の道具を船に乗せて大船団で、朝鮮半島を経由して、日本にやって来る。
徐福一行は日本各地を訪れ、それまでに少しずつ根付きつつあった稲作を中心とした牧歌的弥生文化を、最新技術で急速に発展させて行く。
そして、神武天皇と出会い、北部九州や朝鮮半島南部を中心とした、倭国という連合国家の枠組み形成を援助して行く。
つまり、徐福は予て入植していた斉の呂氏系統の王 神産巣日神(神武天皇)を援助して、邇藝速日命として倭国建国に携わることになる。
参考サイト:徐福伝説
参考記事:徐福は誰ですか?
史記には、徐福(徐市)という人が、秦の始皇帝の命令で、不老長寿の薬を求めて、童男童女数千人と技術者,五穀や数々の道具を船に乗せて大船団で朝鮮半島経由で、紀元前219年頃に日本に向け出航したが、不老長寿の薬は見つからず、平原平沢の王となって戻らなかったという話があります。
徐福は秦により滅亡した斉の出身であり、多くの人と財を手にできたら、日本への移住と建国を考えてもおかしくはないと思われます。
日本各地には徐福が訪れたという伝承が残っており、実在した人物の可能性が高いと思われます。
徐福は、既に日本に斉の王の子孫が居住していることを聞き及んで、始めから日本で斉を建国するために、多くの若者と資材を送り込むつもりでいたのではないでしょうか。
そうでないとしても、日本に渡ってきて、斉の王の子孫と出会ったことで、帰化することを決意したのかもしれません。
参考記事:記紀の仮説 神武天皇① 訂正版
記紀の仮説で倭国の創始者に比定した神武天皇の即位年代は、紀元前239年頃なので、徐福渡来の時期と重なります。
記紀には、神武天皇と出会って手助けをした邇藝速日命が登場します。
この人が徐福その人ではないかと思われます。

黄河下流域の斉では、甕棺墓様式の埋葬が行われていたため、このようにして、紀元前3世紀頃から甕棺墓による埋葬が、朝鮮半島南西部や北部九州を中心に広まって行った。 参考サイト:九州の甕棺
参考サイト:邪馬台国の会 甕棺から推定する弥生時代
参考サイト:河北省で110以上の甕棺墓見つかる―中国
伯玄社遺跡の甕棺は、伯玄社式と言われ、橋口達也氏の分類ではKⅠa式にあたり、日本の甕棺の最初の時期であることがわかります。
また、朝鮮半島の甕棺墓の分布を調べてみると、甕棺墓様式の金海式で有名な韓国慶尚南道金海市の他に、朝鮮半島南西部の韓国全羅南道霊岩郡では馬韓時代の甕棺墓が多数出土しています。
そして、中国の河北省黄驊市(山東省から200kmくらいのところ)でも、吉野ヶ里遺跡と同年代頃の110以上の甕棺墓が見つかっています。
したがって、斉のあった山東省辺りも、甕棺墓様式の埋葬が行われていた可能性が高いと思われます。



 

 

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