仮説と検証②「大和」弥生から古墳へ

 

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中国紀元前100年頃 中国東アジア歴史地図より
http://www.geocities.jp/mapqin/


 


仮説 検証と解説
これまで中国大陸の江南地方と自由に行き来していた日本は、秦の統一と徐福一行の渡来を境に、断絶を余儀なくされることになる。
呉や越などからの渡来人は、それまで中国江南地方との行き来があったと思われますが、徐福一行が帰らなかったり、秦は統一国家を守るため万里の長城のように対外的な防御政策や郡の設置による地方分権→中央集権政策を行ったので、江南地方との勝手な交流ができなくなったように思われます。

朝鮮半島に興った夫余や馬韓は前漢との戦いに敗れ、夫余は北方へ、馬韓は南方へ逃れ、 紀元前1世紀頃になると、中国大陸のみならず朝鮮半島までも前漢に統一される。
倭は、江南地方と朝鮮半島のどちらにも足掛かりを失い、この時期は外交から遠ざかることになる。
しかし、1世紀頃になると前漢が倒れて後漢が興り、朝鮮半島への直接支配も、印綬・朝貢による間接支配へと移り変わり、倭も後漢に朝貢することで金印を授与され、中国との外交が、今度は朝鮮半島を経由して繰り広げられることになる。
そして、それまでの江南(長江下流域)文化に加え、南北(北極星)を基軸とした中原(黄河中流域)文化が日本にも伝わって来る。
これは鉄器、馬、古墳、漢字(漢音)などを象徴する文化である。
参考記事:倭と朝鮮半島とのつながりは? ③準王
参考記事:倭と朝鮮半島とのつながりは? ⑤百済建国
参考サイト:冊封
前漢が朝鮮半島に漢四郡を設置するにあたって、夫余や馬韓と争ったことが、史記の韓信盧綰列伝に暗示されているように思われます。
主人公の韓王信は、馬韓に准えた馬邑という地に派遣され、匈奴に准えた夫余と結託して前漢と戦う姿を暗に伝えています。
古朝鮮から分かれた倭は、古くから朝鮮半島に関わりを持っていたはずですが、前漢が直接支配するようになってからは、朝鮮半島にあまり近づけなくなったように思われます。
前漢の末期から後漢の時代には、印綬・朝貢による冊封体制に移行したため、倭は57年の訪中により金印を授与されて、中国との国交が復活したのではないでしょうか。
そして、「南船北馬」にあるとおり北方の中原地方の主要な輸送手段である馬と共に、中原文化が朝鮮半島経由で伝わってきたのではないかと思われます。
鉄器は中国の戦国時代頃には普及していたようですし、古墳は秦の始皇帝陵に代表される権力の象徴であったことを考え合わせると納得できます。

この流れは、2世紀後半に起きた倭国大乱でしばらくは途絶えるが、3世紀になって卑弥呼が立ってからは、宗像三女神戦略により伽耶(狗邪韓国)を窓口とした交流が盛んに行われていく。
この交流は文化のみならず、それを携えた朝鮮からの渡来人の増加でもあり、朝鮮半島の三韓時代には特に百済を中心に顕著になっていく。
また、6世紀頃になると、インドで生まれた仏教も、この流れに加わってくる。
このようにして、これまであった縄文文化と江南文化がミックスされた弥生文化は、さらに中原文化などが加わり、それらの文化や技術を伝える渡来人が交じり合い、渾然一体となった日本独特な文化を形成していく。

参考記事:卑弥呼は誰ですか?
参考記事:神社探訪 宗像三女神
参考記事:神社探訪 手纏に成れる神
古事記に記された天照大御神(卑弥呼)と須佐之男命の誓約で生まれた宗像三女神は、対馬や壱岐などを経由しない朝鮮半島の伽耶と九州を結ぶ独占的な物流ルートであったことが窺われます。
参考記事:倭と朝鮮半島とのつながりは? ⑥新羅(斯盧国)建国
宗像三女神で朝鮮半島との交流が盛んになった宗像などの筑紫地方は、古事記にもあるとおり「白日別」と呼ばれますが、これは、因幡の白兎の題材になって新羅建国にも関与したと思われる須佐之男命と、日の神の天照大御神に因んだものと思われます。
日本書紀にあるとおり、3世紀後半に神功皇后が新羅征討を行ってからは、伽耶だけでなく三韓との交流も盛んになって行きます。
特に百済との交流は顕著で、応神天皇の代の4世紀中頃には、弓月君、阿直岐、王仁らの渡来人が訪れます。
弓月君は、渡来系氏族として有名な秦氏の祖になるようです。
参考サイト:仏教公伝
そして、538年に、百済の聖王(聖明王)が、釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り、仏教が公伝されることになります。

特に文化の流入で顕著な変化として、古墳文化が挙げられる。
それまでは、甕棺墓や木棺・石棺などの違いはあっても、階級の違いによって特別大きな墓の違いはなかったが、古墳文化の流入と権力の集中化によって、権力者の墓として大型の墳丘墓が作られるようになる。
これはやがて、日本独特の前方後円墳などへと発展し、古墳時代の幕開けとなる。
参考サイト:弥生時代の墓制
朝鮮半島には、弥生時代より早い時代に、代表的な墳丘墓である方形周溝墓が大量に見つかっているようです。
そして、日本の福岡県糸島市にある平原遺跡でも方形周溝墓から大型の銅鏡などが多数見つかりました。
平原遺跡は、豊玉毘賣命(神功皇后)の出身地で、朝鮮半島も含む黄海や東シナ海を股に掛けた海神の基地であったことが窺われます。
したがって、朝鮮半島の方形周溝墓の文化を持った海神が日本各地に広がり、方形周溝墓を残したのではないかと思われます。
そして、最初の日本独特の古墳とされている岡山県倉敷市の楯築墳丘墓は、直径約45メートル高さ約5メートルの円丘の両側に方形の張り出しを持ち、全長約80メートルもある双方中円墳の形をしているようです。
この古墳の形が派生して、前方後円墳や前方後方墳に進化していったのではないでしょうか。
海神系の方形と天皇系の円形が組み合わされて日本独特の古墳文化が形成されていったのかも知れません。
朝鮮半島南部にも前方後円墳などがあるようですが、これは日本から逆輸入されたものと思われます。

また、技術の流入で顕著な変化として、製鉄技術(たたら)が挙げられる。
それまでは、鉄器そのものを輸入に頼っていたので大きな変化はなかったが、1世紀頃、九州(特に阿蘇地方)で独自に鉄器生産が可能となる。

参考サイト:私の阿蘇谷「阿蘇黄土」を訪ねる
熊本県阿蘇市の菊池川の上流で阿蘇黄土の産地である阿蘇谷には、弥生時代後期(1~2世紀頃)の小野原遺跡や下扇原遺跡があり、ベンガラや、鍛冶工房を含む住居と鉄器・鉄滓が出土しているようです。
国内のたたら製鉄の初期には、阿蘇黄土が原料として用いられていたようですが、技術進歩と相まって出雲などの高純度の山砂鉄が用いられるようになって行ったことが窺われます。

変化をもたらしたのは技術や文化のみならず、国家体制にも及んだ。
後漢への朝貢などにより影響を受けた倭国は、中央集権国家としての道を模索していくことになる。
神武東征で、神武天皇は天下を治めるためにはどこがよいかという相談をしています。
高天原(倭国)や葦原中国(出雲国)や東国などに分散していた日本国を統一したいという望みを抱かれていたのではないでしょうか。

2世紀頃、倭国は伊邪那岐神と伊邪那美神の国生みに象徴されるように、鉄などの生産で得た豊富な戦力や経済力と、三輪山の祭祀による教宣活動により、近畿地方や中部・関東地方までをも傘下に収めていく。

参考記事:中国歴史書と記紀との関係は?
参考記事:記紀の仮説 崇神天皇 訂正版
古事記の上巻と中巻の対応付けにより、崇神天皇 = 伊邪那岐神で、2世紀頃倭国を統治された方であることがわかります。
記紀には、伊邪那岐神と伊邪那美神の国生みと神生みの様子が描かれていますが、これは実は高天原である倭国(九州)から日本全国に出かけて行き、交易や教育などを通じて倭国の連合国を拡大して行く過程を表していると思われます。

しかし、この拡大政策は、三輪方(邪馬台国連合)と熊野方の内部抗争を生み、さらに度重なる天災などから倭国大乱に発展する。
三輪方は当時倭国の都を置いていた宮崎の邪馬台国に逃れ、体制を立て直し、3世紀初頭に邪馬台国から卑弥呼(天照大御神)が立つことで、ようやく倭国の争いが静まる。
参考記事:神社探訪 八柱の雷神
参考サイト:気候と社会の共振現象
記紀の崇神天皇記には、四道将軍を派遣したことが記されており、日本全国に交易の拠点を広げて行ったことが窺われます。
そして、建波邇安王の反逆の話や疫病が起きた話などが記されており、内部抗争や天災に起因していたことが窺われます。
伊邪那岐神が禊ぎを行ったのは、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原とあり、これは素直に解釈すると、筑紫島の日向なので宮崎であり、大淀川の河口の沖を小戸の瀬と呼び、小戸神社もあるので、宮崎に間違いない思われます。
2世紀頃には気候変動の幅や周期が大きくなり、洪水や旱魃などで人々が苦しめられたことが窺われます。
そして、3世紀になって卑弥呼(天照大御神)が立った頃には、気候変動も落着いたようです。

卑弥呼は、良質な山砂鉄を豊富に産する出雲国を興した弟の須佐之男命と誓約を結び、宗像三女神戦略による朝鮮半島経由の外交政策を活発化させると同時に、九州東岸の海上輸送による出雲国と邪馬台国(宮崎)と近畿地方を結んだ中央集権国家の礎を築いて行く。
しかし、これまで鉄材料の産地だった九州西岸の狗奴国は、この政策から取り残され、邪馬台国とは次第に敵対関係となって行く。
そして、3世紀中頃、狗奴国との抗争で卑弥呼が死去し、活気づいていた倭国に暗雲が立ち込める。

参考サイト:砂鉄
参考記事:神社探訪 宗像三女神
参考記事:神社探訪 天之忍穂耳命
参考記事:神社探訪 天之菩卑能命
参考記事:神社探訪 天津日子根命
参考記事:神社探訪 活津日子根命
参考記事:神社探訪 熊野久須毘命
記紀には、天照大御神(卑弥呼)と須佐之男命が誓約をして新しい神々を生み出すことが記されています。
それらは、朝鮮半島との物流ルートと思われる宗像三女神、南九州中心主義を推進したと思われる天忍穂耳命、出雲の後継者となる大国主命と思われる天之菩卑能命、尼崎-出雲物流ルートと思われる天津日子根命、大阪-出雲物流ルートと思われる活津日子根命、熊野の木材供給ルートと思われる熊野久須毘命です。
このような九州東岸と出雲、近畿を結ぶ政策のため、阿蘇黄土に端を発する菊池川下流の鉄大国の狗奴国は、九州西岸の有明海からの鉄の交易に取り残されていったのではないかと思われます。
そして、記紀に記された天岩戸神話や魏志倭人伝の卑弥呼死去の記述にあるとおり、天照大御神(卑弥呼)が隠れて(死去して)、世の中が暗くなるのではないでしょうか。
天皇が亡くなられることをお隠れになると言いますが、このことに由来しているのかも知れません。

後を継いだ火遠理命(仲哀天皇)は、勃発した内部抗争を治めることができず、困って海神に相談に行き、娘の豊玉毘賣命(台与:神功皇后)と結ばれる。
そして、台与が倭国を治めることで、狗奴国との抗争にも勝利し、倭国に平和が戻る。

参考記事:神社探訪 豊宇気毘賣神
参考記事:神社探訪 登由宇気神
参考記事:神社探訪 火遠理命
魏志倭人伝には、「卑弥呼の死後、男王を立てるも国中服せず相誅殺す・・・卑弥呼の宗女の台与十三歳を立てることで国中定まる」とあります。
卑弥呼 = 天照大御神なので、後を継いで活躍した宗女の台与に該当する神を記紀から探してみると、開化天皇の曾孫で天照大御神と血縁関係のある神功皇后が浮かび上がってきます。
また、天照大御神を祀った伊勢神宮の内宮に対して、対をなす外宮で祀られている豊受大御神は、「豊」= 台与(とよ)で、「受」は天照大御神の後を受け継いだという意味だとすると、このご祭神は台与ということになります。
そこで、台与を神功皇后と仮定し、古事記の上巻と中巻を対応付けると、台与 = 豊玉毘賣命 = 神功皇后で、その夫は火遠理命 = 仲哀天皇となり、釣り針を無くして海幸彦に責められ困った火遠理命が、卑弥呼の後に立てられ内部抗争を治められずに困った男王と重なって見えてきます。
そして、海幸山幸神話と天岩戸神話の結末にあるとおり、台与が海神として船に乗り倭国を治めることで、再び世の中が明るくなるのではないでしょうか。

台与は、卑弥呼の政策を引き継ぎ、中央集権国家建設を進める傍ら、一方では福岡を拠点にして狗奴国征討や、朝鮮半島で3世紀中頃に興った新羅との戦闘など、海神として自ら船に乗り東奔西走し、目覚ましい活躍をする。
そして、4世紀中頃、台与の子である鵜葺草葺不合命(応神天皇)の代には、遂に、神武東征に准えた近畿を中心とした中央集権国家の大和(大倭)政権が誕生したのである。
神功皇后は、前述の平原遺跡から程近い小山田邑の斎宮(福岡県粕屋郡久山町山田)に籠って戦勝祈願の神事を執り行われたようです。
記紀の神功皇后記には、熊襲征伐と新羅出兵の話が記されています。
日本書紀の応神天皇記には、東の蝦夷の朝貢の話、先に述べた百済からの朝貢や渡来人の話、百済・新羅・高句麗・任那からの来朝の話などが記されており、この頃には大和朝廷が成立していたと思われます。



 

 

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