仮説と検証③ 邪馬台国の在り処

 

魏志倭人伝には、倭の地は温暖で趣きは儋耳・珠崖(海南島)に似ている、また、会稽の東治の東にあると書いてあるので、その代表国である邪馬台国は、気候が温かく、緯度が近い南九州の方ではないかと思われます。

また、倭の地は周旋五千余里とありますが、帯方郡から狗邪韓国までが七千余里なので、その7割程度の距離で周囲を測れるような島になっていると考えられます。 

したがって、本州とは考えにくく、九州がそれに近い大きさと思われます。

末盧国からは、方角と距離を記述しているので、その通りに辿って行きます。

魏志倭人伝に「皆津に臨みて捜露し」とあるので、伊都国は海に面していると思われます。

玄界灘側だと、末盧国からの方角が合わないことや、陸行する必要がないので、伊都国の位置は有明海側だと思われます。

伊都国は、倭国を監視し、帯方郡の使いも必ず立ち寄る場所なので、各国への方角や距離は、伊都国から放射状になると考えます。

以上を踏まえて、倭国の主要な国々の位置を記した地図は以下のとおりです。

yamataikoku  
九州地図と魏志倭人伝に出てくる主要国の配置

 

それでは、上記地図の位置の信憑性を各国ごとに詳細に確認して行きます。


仮説 地図  検証と解説
伊都国

佐賀県神埼市や神埼郡吉野ヶ里町に跨る吉野ヶ里遺跡付近に比定

①帯方郡→狗邪韓国:七千余里

 →実測:700900km→千里≒115km

 

②狗邪韓国→對馬国:千余里

 →実測:60110km→千里≒85km

 

③對馬国→一大国:千余里

 →実測:50100km→千里≒75km

 

④一大国→末盧国:千余里

 →実測:3040km→千里≒35km

 

千里 = (115km + 85km + 75km + 35km) / 4 ≒ 80km

 

⑤末盧国→東南陸行五百里(40km)伊都国

 

 

 

吉野ヶ里遺跡はBC5世紀~AD3世紀頃の700年間続いた弥生時代の大規模集落で、環濠跡や竪穴式住居や弥生式土器などの他に、甕棺墓、銅剣、銅戈、銅鐸、管玉、鉄製品、鋳造型なども出土しています。

特に甕棺墓からは、首を切断されたり、鏃が多数刺さった人骨なども見つかっており、激しい戦いがあったことが窺え、検察を担った伊都国と言える根拠になりそうです。

地理的根拠としては、魏志倭人伝の道程記述を素直に読み解くことで確認できます。

しかし、魏志倭人伝とその掲載元の三国志には一里の単位が長里(435m)で説明できないような短い距離表現が各所にあるようで、バラツキが大きく、単純に距離を決定できません。

そこで、帯方郡から末盧国までの道程は一般的にも比定地に大きな違いがないので、左記の①~④の地図からの実測を基に、概略の距離を平均で求めると、千里≒80kmとなります。

そこで末盧国は一般的に唐津市辺りに比定されているので、⑤で唐津市から南東方向約40km辺りを調べると、約50kmの地点に吉野ヶ里遺跡が見つかります。

 

狭義の「伊都国」は上記のとおりですが、広義の「いと国」と呼ばれた地域は年代の移り変わりと共に変遷しているように思われます。

BC3世紀以前は倭国は玄界灘に臨む福岡県糸島市や福岡市西区が中心地で「倭奴国(委奴国)」と呼ばれていたことが想定されます。

参考記事:記紀の仮説 神武天皇② 訂正版

しかし、「記紀の仮説 神武天皇 訂正版」にあるように、BC2世紀頃、糸島市や福岡市西区辺りから、南九州への領土拡大に有利な有明海に臨む吉野ヶ里遺跡辺りに遷都された様子が窺われます。

そのため、卑弥呼の時代のAD3世紀頃には、吉野ヶ里遺跡辺りが諸国の検察権を担う「伊都国」と呼ばれるようになったと考えられます。

そしてその後、佐賀に遷都する前の海神の本拠地であった糸島辺りも「怡土国」と呼ばれるようになったのではないでしようか。

邪馬台国

宮崎市辺りに比定



⑥伊都国→南 水行十日(⑥-1)
       陸行一月(⑥-2)→邪馬壹国

参考記事:倭国の国々 邪馬壹國
魏志倭人伝の原文には、邪馬台国は「邪馬壹國」と記されており、卑弥呼の後を継ぐ台与は「壹與」と記されています。

同じ「壹」の字が使われた台与を「トヨ」と呼ぶので、邪馬台国も「ヤマト国」と呼んでいたことが想定されます。
古事記の神武東征の段では、神武天皇である神倭伊波禮毘古命と兄の五瀬命が高千穂宮で天下を治めるのはどこがよいか相談し、日向から発ってまず筑紫に行くということが記されています。
この神武東征によって、都を畿内に写し、大和「ヤマト」政権が誕生するのです。
したがって、神武東征の出発地は邪馬台国と同じくヤマト国と呼ばれていたことが想定でき、邪馬台国 = ヤマト国 → 大和政権と考えられます。
そしてこの記述には、船で行かなければならないヤマト国ではない地として「筑紫」が、ヤマト国として「高千穂」と「日向」が登場するので、ヤマト国の場所は、普通に考えたら宮崎であることがわかります。
つまり、邪馬台国 = ヤマト国 = 宮崎という論理が成り立ちます。

また、魏志倭人伝の邪馬壹國の官の記述には、「伊支馬」→「いきめ」という人物が登場します。
「いきめ」→「生目」であり、このことから邪馬壹國の所在地は生目古墳群がある宮崎であることがわかります。

魏志倭人伝の道程記述を素直に読み解くことでも邪馬壹國が宮崎付近にあったことが推定できます。
伊都国に比定した吉野ヶ里遺跡は昔は有明海や筑後川の河口に面していたと考えられるので、筑後川を遡って日田市辺りまで水行(⑥-1)し、そこから阿蘇市や高千穂町や延岡市を通って陸行(⑥-2)するという総合的に南への行程で宮崎市に到達します。
投馬国

 

鹿児島県薩摩川内市辺りに比定



⑦伊都国→南至投馬國水行二十日 →投馬国




⑦で吉野ヶ里遺跡から有明海を南へ水行するので、熊本・鹿児島・奄美大島・沖縄辺りまで到達することになります。
ここで、邪馬台国の行程記述「水行十日」から距離を推定すると、水行十日は筑後川河口から日田までの遡上としたので、距離が70kmくらいになります。
これに川の流れの抵抗分を考慮して1.5倍すると、二十日なら140kmの1.5倍 = 210kmくらいの所となり、地図を見てみると鹿児島の薩摩川内市辺りに着くことがわかります。

再度、この推定の確からしさを検討してみます。
「投馬」は、「とうま」や「つま」などと呼ばれていたと想定されるので、そのような地名を探してみると、「当麻(宮崎)」、「當麻(奈良)」、「当間(沖縄、茨城)」、「藤間(埼玉)」、「妻万(兵庫)」、「都万(島根)」、「妻(和歌山、宮崎)」などがあります。
宮崎は邪馬台国と同じ道程になるはずなのに、 「南至投馬國水行二十日」という表現になるのは辻褄が合わないので対象外とします。
沖縄・奄美は、魏志倭人伝の投馬国の記述に 「五万余戸」とあり、それ程多くの住民がいたとは考えにくいので対象外とします。
奈良・茨城・埼玉・兵庫・島根・和歌山は、南という記述と合わないので対象外とします。
南の方角に、福岡県筑後市下妻や長崎県雲仙市吾妻町という「妻」を含む地名がありますが、水行二十日と言うほど遠距離ではないので対象外とします。
したがって、上記のいずれも投馬国には比定できないことがわかります。
そして、その他に薩摩(さつま)と呼んでいた鹿児島も、「つま」であり、「早妻」、「沙妻」、「左妻」、「佐妻」などが考えられ、宮崎県西都市辺りの「当麻」や「妻」と対比して、早い、砂浜の、左に位置する、補佐するなどの理由から名付けられた可能性が考えられます。

参考記事:倭国の国々:姐奴國
また、「倭国の国々:姐奴國」で、姐奴国を笠沙の岬がある鹿児島県南さつま市付近に比定したように、南薩の姐奴国と北薩の投馬国が合わさって、姐奴投馬「さととうま」→「さつま」となったのかも知れません。

以上から、投馬国は鹿児島県薩摩川内市辺りに比定できそうです。
そしてさらに、薩摩川内市には、甑島の縄文時代からの中町馬場遺跡や、横馬場町などの馬に関わる地名があり、古くから馬の飼育がなされていたことも窺われ、投馬国という国名の基になったのかも知れません。
箸墓古墳の周濠からは、木製輪鐙(写真右下)が出土しており、弥生時代にも上流階級では乗馬が行われていたことが窺われます。
不弥国


福岡県久留米市付近に比定

伊都国→東行至不彌國百里
(陸行または水行で8km~30km 注1)

1

陸行と水行のどちらも記されていないのでどちらでも行ける場所と思われる。

吉野ヶ里遺跡と良積遺跡のどちらも筑後川とその支流でつながっているので水行も可。

計算では8kmになるがこれ未満の距離ではほぼ隣村であり、敢て百里とは記さないと思われるので、8km以上でかつ徒歩で一日で行ける距離≒30km
以内とする

伊都国のところで千里≒80kmとしたので⑧で吉野ヶ里遺跡から東へ8~30km程度の遺跡を調べると、15kmくらいの所に、弥生時代の大規模環濠集落である良積遺跡(福岡県久留米市北野町)があります。
この遺跡からは、住居跡や井戸や弥生式土器などの他に甕棺墓や中国製銅鏡や勾玉や管玉や鉄器なども出土しており、不弥国に比定できそうです。

再度、この推定の確からしさを検討してみます。
良積遺跡の名前の由来となった良積石(写真の良積石スケッチ参照)という石碑が、この遺跡の場所に建てられています。
その碑文の内容は写真のとおりで、漢字と梵字?で以下のように記されています。
東面: 右志為 リョ(→良) 一夫未(→文:ふみ)記
西面: 右志者 貞和五年(1339年) サ(→観音菩薩/遷り変り) 八月下旬(→文月) 法界衆生(生きとし生けるものへ)

この内容を踏まえ筆者なりに解釈すると、派遣された藤原良積が、不弥国の跡であることを後世に伝えんとして、表向きには供養塔を装い、「不弥国」を「ふみ国」 →「文国」の跡として記したのではないかと思われます。
江戸時代より前の旧暦では、月名を睦月などの和風月名で呼ばれていたようなのに、わざわざ「八月下旬」と書いた理由も、二十四節気の処暑(8月23日頃)を含む月を「文月」と呼ぶことから、ここでも「文」を暗示していると考えれば納得できます。
平安時代の書物「政事要略」には、推古天皇十二年(604年)正月朔日に初めて元嘉暦という太陰太陽暦の頒布を行ったとの記述があるようです。
太陰太陽暦は30日×12か月の周期と、地球が太陽の周りを一回りする周期のズレを二十四節気の中気が含まれるかどうかで判断し、含まれない場合に閏月を挿入することで季節のズレを補正するというものなので、604年からその補正を入れると、以下のグラフのとおり、1339年5月の次に閏月が入るため、「八月」を八番目の月の意味と捉えると「文月」となります。


ここは、伊都国にも近く、筑後川などを経由して邪馬台国を含む多くの国々に文(ふみ:木簡)を届けるのに好立地だったのではないでしょうか。
参考サイト:馬韓
参考記事:倭と朝鮮半島とのつながりは?⑤百済建国
ちなみに、朝鮮半島の馬韓にも同名の「不彌國」があったようです。
馬韓にも倭国の影響力があり、日本語の読みが通じていたとすれば、同じく馬韓の木簡配送を担っていたことが窺われます。
倭国を興した呂氏(晏孺子)系統が馬韓建国にも関与していたと思われます。


奴国

福岡県みやま市付近に比定


⑨伊都国→東南至奴國百里
(陸行または水行で8km~30km 注1)
注1:
陸行と水行のどちらも記されていないのでどちらでも行ける場所と思われる。
吉野ヶ里遺跡と山門遺跡群の間は有明海と筑後川や矢部川などでつながっているので水行も可。
計算では8kmになるがこれ未満の距離ではほぼ隣村でありあえて百里とは記さないと思われるので、8km以上でかつ徒歩で一日で行ける距離≒30km以内とする。





伊都国のところで千里≒80kmとしたので⑨で吉野ヶ里遺跡から南東へ8~30km程度の遺跡を調べると、 20kmくらいの所に、山門遺跡群(福岡県みやま市)があります。
この遺跡群のあるみやま市は、みやま市地図のとおり東と南を山に囲まれ、北西を矢部川、南西を有明海に面しており、環濠を設けなくても周囲を守られた地形になっています。
そして、その東の女山は昔は女王山と呼ばれていたようで卑弥呼との繋がりを感じさせ、そこからは狗奴国との戦闘の舞台となったのではないかと思われる女山神籠石や、祭祀などに用いられる幅広銅矛や勾玉や管玉の首飾りなどが出土しています。
また、住居跡や弥生式土器などの他に、多くの甕棺墓や支石墓群、古墳群、たたら製鉄跡、銅鏡や鉄剣などが出土しており、奴国に比定できそうです。
遺跡群はみやま市全体に広がっており、吉野ヶ里遺跡(40ha)を伊都国(千余戸)とすると、奴国は二万余戸なので、その20倍程度の面積が必要となりますが、みやま市地図に示すとおり古代の海岸線を考慮してもみやま市の平地面積は1800ha以上あるので居住面積として問題ないと思われます。

倭奴国を「いと国」と呼んだとすると、奴国は「と国」と呼ばれたことが想定され、「奴」は「戸」や「門」を意味するとすれば、遺跡や旧地名の「山門」に相通じることがわかります。
魏志倭人伝に「次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國」と記されているように、奴国は南に敵対する狗奴国と国境を接する最前線基地で、邪馬台国連合の門の役割を担った国だったのではないでしょうか。
狗奴国

熊本県山鹿市付近に比定
  魏志倭人伝には狗奴国への道程は記されていませんが、 「次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」という記述があり、奴国の南にあって、男子王「狗古智卑狗」がいて女王に属していないと記されています。
また、「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和・・・相攻撃・・・」とあり、女王卑弥呼は魏に遣いを送り、不和が生じた狗奴国を相攻撃する状を説いたことが記されています。
「狗古智卑狗」は菊池彦とも考えられ、菊池川一帯を本拠とした部族と仮定して、奴國(福岡県みやま市)の南の方の遺跡を調べると、熊本県山鹿市に、菊池川とその支流の方保田川に挟まれた台地にある方保田東原遺跡という弥生時代に掛かる大集落遺跡が見つかります。
この遺跡からは、竪穴式住居跡や弥生式土器などの他に、防御用と思われる大溝や土塁跡、全国で唯一の石包丁形鉄器や、特殊な祭器である巴形銅器や銅鏡など数多くの青銅製品や鉄製品が出土しており、土器や鉄器を製作したと考えられる遺構も見つかっています。
特に鉄材については500点以上も見つかっており、全国的にも際立って多いようです。
以上を踏まえると、鉄生産などで栄え、邪馬台国連合と戦えるだけの十分な財力を蓄えていたことが窺え、狗奴國と言える根拠になりそうです。

一方、後漢書東夷伝には「女王國東度海千餘里至拘奴國」と記されています。
魏志倭人伝と後漢書東夷伝のどちらの記述も方角や距離が正しいとすると、前者の「狗奴國」と後者の「拘奴國」は別物ということになります。
女王国九州から東に千里(80km)海を渡った先にあるのは、中国地方や四国地方になります。
中国地方で大きな勢力を有する国としては荒神谷遺跡などにその威光を留める出雲国があったはずですし、四国地方でも愛媛県の道後平野には弥生時代の道後城北遺跡群や久米遺跡群などの大集落が確認されており、「拘奴國」と呼べるようなクニがあったことが窺われます。
そして、図のとおり、どちらも九州東岸の経線から真東に千余里(約80km)の距離にあることがわかります。
その中でも出雲国は国譲りの要請に対してかなり拘ったので、「拘」の字が使われたとすれば、 「拘奴國」 に比定できそうです。
魏志倭人伝には狗邪韓國に「狗」の字が使われていますが、魏志倭人伝の基となった魏略や、後漢書東夷伝には「拘邪韓國」となっており、「拘」の字が使われています。
したがって、魏志倭人伝の「狗邪韓國」は記述誤りで「拘邪韓國」が正しいとすると、「拘邪韓國」も出雲国の須佐之男命が製鉄技術等の移入のため渡った国だから「拘」の字が使われたと考えれば辻褄が合います。





 

 

 

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